天草四郎

天草 四郎(あまくさ しろう)、元和7年(1621年)? - 寛永15年2月28日(1638年4月12日)は、江戸時代初期のキリシタン。

島原の乱の指導者とされている人物で、幕府の攻撃による原城陥落により自害したとされる。本名は益田四郎(ますだ しろう)。諱は時貞(ときさだ)。洗礼名は「ジェロニモ」もしくは「フランシスコ」。一般には天草四郎時貞という名で知られる。本名については愛知時貞(えち ときさだ)という説もある

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生涯

肥後国南半国のキリシタン大名で関ヶ原の戦いに敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされる。しかし、宇土郡江部村(現在の宇土市)または長崎出身という説もあり、出生地ははっきりしない。益田家は小西氏滅亡後、浪人百姓として一家で宇土に居住したという。その生涯については不明の点が多いが、生まれながらにしてカリスマ性があり、大変聡明で、慈悲深く、容姿端麗で女が見たら一目惚れするとまで言われたほどだった。また、経済的に恵まれていたため、幼少期から学問に親しみ、優れた教養があったようである。小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物であると考えられており、さまざまな奇跡(盲目の少女に触れると視力を取り戻した、海面を歩いたなど)を起こした伝説や、四郎が豊臣秀頼の落胤、豊臣秀綱であるとする風説も広められた。

島原の乱勃発時は16才程度の少年で、十字架を掲げて戦闘を指揮したと伝わり、徳川幕府の軍隊による原城への総攻撃を受けて、炎の中で自害したとされる。実際には少年であった四郎が大規模な反乱を組織したり戦いを指導したとは考えられず、実質的な首謀者は庄屋や浪人たちで、彼はその象徴として祭り上げられた性格が強い。しかし、3万7000人とされる島原の乱の参加者が主と仰ぐカリスマ的存在であったのは確かである。

死後に首を切断されて幕府へ送られたという話もあり、首は長崎の原城大手門前にて晒されたとも伝わる。そのとき幕府側には天草四郎の姿や素性の情報が全く伝わっておらず、原城に立てこもった反乱軍が皆殺し(内通者の山田右衛門作を除く)にされているため、旗印の近くにあった立派な服装をした少年の死体を天草四郎と断定したと言われている。そのため、首実検を行おうにも、その首自体が天草四郎本人のものかどうかは最終的に分からなかったという。一説には、幕府軍に捕えられた四郎の母は「今ごろ四郎は白鳥になって伴天連の国へ向かっているでしょう」とうそぶいたが、四郎の首を見せられると悲嘆して泣き崩れたとのことである。

四郎の秀頼落胤説は、馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であることなどから、大坂夏の陣において死去したはずの秀頼が大坂城を脱出して薩摩へ逃れていたとする論拠で、豊臣家権威の糾合を図ったとも考えられている。豊臣秀綱という名があったと鹿児島での書物に記されている。

原城跡をはじめ天草、島原など複数箇所に銅像がある。また、後年民家の石垣から発見された、四郎の母が建立したと思われる墓石も立っている。

四郎法度書

四郎法度書(しろうはっとしょ)とは、一揆の指導層が原城内の一揆勢に対して寛永15年2月1日付、「益田四郎 ふらんしすこ」名義で発布した文書。無理やりキリシタンにさせられた者の赦免を認めるという松平信綱の通告に際して、「天草四郎の意思」を示すことで一揆勢の動揺を防ごうとした。一揆への参加を「神の慈悲に応えるための奉公」として捉え、一揆からの離脱を戒めている。上天草市の天草四郎メモリアルホールに、その複製が展示されている。

なお、2007年(平成19年)1月10日に放送されたNHK総合テレビの 『その時歴史が動いた』では、「四郎法度書」の文言の意訳として「いま籠城している者たちは来世まで友になる」との言葉が紹介された。また、同年3月28日のスペシャル版にて視聴者アンケートによる「もう一度聞きたい言葉」の20位に選ばれている。

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